ゲオルクの日記

多分三日くらいで潰れる

ネタバレ有シン・エヴァ雑語り

ネタバレするぞ 俺はやると言ったらやる

さて今作、一晩経って考えるにつれ、旧作の落とし物を丁寧に回収しようとする意思がひしひしと感じられ、シリーズ物としてかなり「ちゃんとしてる」なあという感想になってきた。単体の映画として見ても背景の美麗さだったり見所は多い映画ですから、総じて冗長な感じも受けず満足度は高かったように思う。

ところで新劇場版の内容は当然テレビ版及び旧劇場版のリメイク(実際には地続きの話であることが今作でほのめかされたわけだが)としてあるので、大雑把に旧作をなぞっているわけです。『:Q』はテレビ版とは相当異なった内容になっているにしろ、カヲルくんとの出会いとその死であったり、24話「最後のシ者」までの内容をなぞっていた。つまり『シン』は残る25・26話の内容を踏襲したものになることが当然予想されたわけです。まさに我々にとって三度目の正直と言うべき作品なわけです。

実際のところ今作は旧劇場版を思わせる演出・展開が多岐にわたって見られ、ではメッセージ・テーマ性というものがどうなったかということについてですが、正直に言えばシンのテーマも全く咀嚼しきれていないし旧劇のテーマも正直理解しているかどうか怪しいので何も言えません。お前やる気あんの?

真面目な話をしようとすると、「現実と虚構」というテーマは確実にあると思うし、「アニメ」という媒体自体が「虚構」の比喩として使われていることは確実っぽい。しかし巷でよく言われている「オタクはアニメを卒業して現実に帰れ」という見方には個人的に待ったをかけたくなるというか、お前それ浅くないか?と言いたいわけです。それはお前がオタク叩きをしたいのに作品を利用してはいまいかと。旧作は現実世界で打ちのめされたシンジが精神世界で救われる話だった。しかしシンは現実世界で立ち直ったシンジが精神世界で他の人たちを救う話になっている。ここの対比は明らかに意図的であると感じざるを得ません。虚構のアニメーションの世界を飛び出してリアルな世界に進んでいったことを肯定的に描いたエンディングにおいて、果たしてこれが虚構を否定的に捉えたものと解釈してよいものかどうか。

そこで考えたいのが初号機VS13号機の一連のシーン。このシーンはシリーズ中通して初めてシンジがゲンドウと直接対決する場面であり、またゲンドウと対話に及ぶというテレビ版・旧劇場版・漫画版・新劇場版通してずっと避けてきたことに初めて及んだ場面でもある。そういった点でも重要なシーンに違いないが、問題はここ以降の演出です。第三新東京市での戦闘が始まると視聴者はすぐに何かがおかしいことに気付く。CGの雰囲気が明らかにこれまでと異なるからです。そしてビルの挙動もおかしい。そして初号機が倒れ込み、背景の空が実はホリゾントであったことに気付く。ビルは全てミニチュアで、実は一連のシーンは特撮のセットで撮影されていたと分かるわけです。

そもそもパンフレットにも書いてあった通り、今作は実写映画的な技法が取り入れられていて、それは冒頭の8号機の戦闘シーンでも分かります。では精神世界の演出に「特撮のセット」というシチュエーションが採用されたのは、単に総監督庵野秀明ウルトラマン大好きな特撮オタクだからだろうか。ちょっとはそれもあると思うけど恐らくそれだけが理由ではない。思い返すに、旧劇場版ではアニメーションを虚構、実写映像を現実と見なす演出がなされていた。ここからは僕の想像になりますが、「特撮」はその中間と捉えられているのではないでしょうか。実写の映像だけど、現実には起こらないような映像を撮る。特撮の本質は見る者の視覚に嘘をつくことだと昔聞いたような聞かなかったような曖昧な記憶があります。虚構と現実の中間。そのメタファーとして特撮を使ったのであればこれほど説得力のある話は無い。

要するに現実と虚構は互いに影響し合うし、どっちかに完全に属せねばならないという性質のものでもないという話を含むと思うわけです。だからそれを「アニメなんざ卒業しろ」というメッセージとして受容するのはあまりに乱暴ではないか。

話が色々と逸れたような感じもするが、そういったメタフィクションっぽい話をさっ引けば今作の話って非常にシンプルで、「主人公が子供から大人になる話」という王道的な成長譚だと感じられた。ゲンドウも「大人になったな」つってるし。何なら実際大人になるし。碇シンジ(CV:神木隆之介)についてはもう何も言うことはないというか、ジブリ作品や『君の名は』、『サマーウォーズ』などを思い起こすにつれ、間違いなく日本のアニメ映画を牽引してきた声優は神木隆之介を差し置いて考えられない。「エヴァンゲリオン」というコンテンツを締めくくるのにまず間違いなく相応しい。また話が逸れました。

ゲンドウの一連の独白は非常に驚いたというか、中盤でのケンスケの台詞だったり予告編から「シンジが父と向かい合う」という展開は予想されたものの、実は「ゲンドウが息子と向かい合う」というシーンだったというどんでん返しが面白かった。僕は最近カイジのアニメ見てたんだけどそんなこと忘れるくらい引き込まれる独白だった。ゲンドウとシンジが本質的に似ていて、実はゲンドウの方もシンジから逃げていたんだという話は旧劇でも提示されていた部分。しかし今回はそれを直接シンジに吐露し、「すまなかったな、シンジ」と直接口にした。ちゃんと言えたじゃねえか……と思わず全身がグラディオスになる。

そう、「すまなかったなシンジ」もそうだが、今作は旧劇場版で取りこぼした部分、敢えて捨ててきた部分を拾いまくっている。結局のところ旧作ではシンジ以外の人物については描かれなかった。だから今度はシンジが彼らを救うという構造。二十数年前の映画を踏まえた展開なんてどうなんだと思うかもしれないが、これは四半世紀続いてきたコンテンツにのみ与えられる特権といったところで、こういう特権は行使せねば損だと僕は思っている。*1

そういう視点から言えば、精神世界の特撮スタジオから主要キャラたちが消える場面は彼らをその役から降ろすという意味であると見ることもできる。加持さんがカヲルに言った「渚は海と陸の中間、使徒と人間の狭間であるあなたにぴったり」みたいな台詞は印象深い。何が印象深いのかと言えば、本来「渚」は分解して「シ者」、すなわち使徒を意味する苗字だということはオタクの間では常識なわけです。それに今回別の意味が与えられた。たとえ後付けであっても、渚カヲルを「最後のシ者」から解放したわけです。カヲルくんは分かりやすい例だったが、そういったことがアスカやレイに対しても行われている。チルドレンはこうして大人になったという話。

そして旧作からのヒロインだったはずがQで急速にそのロールを減衰させ、ついにシンで子持ちであることが明かされ決定的にヒロイン力(ちから)を失ったミサトさん*2。しかしその代わりに「父親が全ての元凶」という決定的な主人公属性を手に入れ、エヴァの裏主人公という唯一無二の属性を欲しいままにするミサトさん。ていうかお前やってること完全にネモ船長じゃねーか!旧作でのミサトさんはシンジにとって保護者なのか年上のお姉さんなのかよく分からんキャラで(というかミサトさん本人もよく分かっておらず)、最終的に大人のキスぶちかまして初めて土俵に上がるという凄いヒロインだったわけですが、今回は逆に「親」としての葛城ミサトを強調してきた。多分そこが葛城ミサトというキャラにとっての救済だったのかもしれないしそうじゃないかもしれない。

そして最後に残されたシンジを迎えに来るのがマリという構図。「マリとは何のためのキャラクターなのか?」という話は常々考えられてきたことです。マリは他のチルドレンと違って旧作からの続投キャラではない。だからシンジに救われる必要はない。だからこそシンジを迎えに来ることができるという複雑そうで単純な話。というかお前も京都大学冬月研究室所属・綾波ユイ大好きクラブ会員ナンバー3だったんかい!

ところでマリって初登場からシンジの「匂い」について言及するじゃないですか。今回二度に渡ってそれが補強されていて、それって恐らく「匂い」は映画から知覚できない現実にしか存在しない部分だからじゃないかと。まあ4DXは匂いもするんですけど、そんなことはさておき、マリは現実にしか無い匂いを知覚することができる存在として描かれている。つまりマリは現実サイドからの使者だったんだよ!みたいな結論は早計だと思うので封印します。皆さんで考えてください(は?)

他にも言うべきことは色々あると思うんですが今回は初見時の感想を思ったまま残しておきたかっただけなのでこの辺でやめておきます。松任谷由実最高!宇多田ヒカル最高!鷺巣詩郎最高!惑星大戦争は観たことないので今度観ます。

*1:同じ理由で僕はジオウOQも好きだったりする

*2:子持ちの人妻って興奮するよねみたいな話はややこしくなるのでやめてください